少年期に両親と死別も、めげずに自分の道を歩んでいく半生を赤裸々に話します

「自分の家族と過ごせる時間を増やしたい!」

「できることを増やして場所にとらわれず働きたい!」

「すべての『学ぶ』と『教える』を支えたい!」

僕が高校教諭を辞めて転職を決意したのは、2020年のコロナ禍でそんな想いを抱いたのがきっかけでした。

こんにちは!SUUUZY BLOGを運営していますスージー(@suuuzy_tutor)です!

こちらの記事では、このブログの方針と僕の半生についてご紹介したいと思います!

やや長文になりますが、少しだけお付き合いいただけたら嬉しいです!

何卒よろしくお願い申し上げます!

スージーとはどんな人間?

スージー
スージー

まずは簡単に、僕のプロフィールをご紹介します!

年齢32歳(91年生まれ/ひつじ年/ふたご座)
出身茨城県
血液型O型
職業オンライン教育支援×マイクロ法人
経歴某国立大学教育学部卒業
→都立高校勤務(約10年)
→オンライン教育支援
資格・普通自動車第一種運転免許
・普通自動二輪免許
・小学校教諭一種免許状
・中学校教諭一種免許状(数学)
・高等学校教諭一種免許状(数学)
・防災士
・日商簿記3級
・ITパスポート
・基本情報技術者
趣味散歩・離乳食作り・筋トレ・キャンプ・旅行
スポーツ球技全般・マラソン・トライアスロン
好きな言葉為せば成る、為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。
海外渡航歴グアム、韓国、ドイツ、タイ
将来の夢のどかな田舎で家族とのんびり暮らす
SNSTwitter(@suuuzy_tutor)、ポートフォリオ(Suuuzy’s Portfolio)

SUUUZY BLOGの方針

スージー
スージー

続いて、このブログの方針をご紹介します!

こちらのブログでは、僕が学んでいることをはじめ、行動して成果が出たことなどを体系的にまとめていきます。(※無益な自分語りも多いです。)

現在記事にまとめていこうとしているのは以下の通りです。

① 教育関係

② 資産形成

③ その他・雑記

こちらのブログが

●同じ業界・同じ経験をしている方への新たな学びや気付き

●これから何かを学び始めようとしている方への参考、後押し

になるとともに、

●学んで行動することで広がる可能性

●何かに挑戦することの素晴らしさ

なんかを読者の皆さまに届けることができたらと思っています。

スージーの半生

スージー
スージー

そんな僕についてもう少し詳しく、これまでの人生の主な分岐点やライフイベントについてお話しします!お時間あって興味のある方だけ読んでください!

1991年(0歳)茨城県に生まれる

ごくごく一般的な家庭の二人兄弟の次男として誕生しました。

幼い頃は人を笑わせるのが好きなひょうきん者だったそうです。

1998年(7歳)初めての夏休みに父を亡くす

小1の初めての夏休み。

海に花火にお祭りにと、遊び倒すのにテンション爆上がりなある日、一本の電話が鳴りました。

「○○さん(父)が海難事故でお亡くなりになりました。」

突然の訃報に、家族はみな傷心。

状況がほとんど飲み込めないまま執り行われた葬儀で、事態をようやく受け止めました。

そのとき生まれて初めて、いつも笑顔で優しい母が涙を流して泣いている姿を見たのです。

その姿に大きく動揺したのを、今でもはっきりと覚えています。

このときから、母に心配をかけてはいけない、自分のことは一人でしっかりしないといけないと強く思うようになりました。

そこから正しい道をふみはずすことなく?、すくすくと成長できたのはいつもそばにいてくれた母と祖父母のお陰だったと思います。

小学生時代にはスポーツは兄の影響でミニバスと、子ども会なるものの男子は強制のソフトボールを経験しました。

僕はピッチャーでたまに4番、内野手はほぼスポ少野球チームに所属という恵まれたチームだったこともあり、5.6年生の時は小学校→町内→広域の大会で優勝させてもらいました。

放課後は毎日、友達と公園で中あてとか缶蹴り遊びをするような体を動かすのが大好きな少年でした。

休みの日は家でミニ四駆にどっぷりハマって、建具屋だった祖父の廃材を使って工作遊びをするような一面もありました。

なかなか旅行とかに連れてってもらえる裕福な家庭ではなかったので、そんな友達を羨ましいな~と思いながら家で過ごしていました。

父の死がきっかけで、感情表現は抑えがちで、表現下手で、頼り下手で、人から可哀想だと思われるのが嫌でそればかり気にしたせいなのか上がり症になったと思います。

一方で、負けず嫌いになり、人の痛みも分かる人間になれたとも思っています。

勉強も負けたくないのと、何でもできたらカッコいい的な考えから、頑張ってオールAをとったこともちゃっかりアピールしておきます。

2009年(18歳)大学受験を前に母を亡くす

中学高校とずっと公立で、部活(ソフトテニス部)に勉強にと打ち込んでいたある冬のこと。

母が突然、お腹が痛くなったからと(理由をつけて)病院へ行くことがありました。

寒い中、前日夜遅くまでナイター練に付き合わせてしまったからかなと少し悪い気になりましたが、その後も母は定期的に通院するようになります。

母の様子に異変を感じたのは高校生になってから。

それまで勤めていた仕事を辞め、より自宅から近い飲食店でパートをするようになります。

体も日に日に痩せ細っていき、食事の量も減っていたと思います。

高3になってから母は、24時間片目に眼帯を付けっぱなしの生活で、入院することも増えていました。

ずっと心配はしていたのですが、いよいよマズいなと思ったときはもう遅かったです。

高3の秋、深夜に母が入院している病院から電話が掛かってきます。

すべてを覚悟して、兄の運転で病院へ向かう車内では大泣きしてしまいました。

それからのことはよく覚えていません。

心にぽっかりと大きな穴があき、気が付けばお通夜も告別式も終わっていました。

受験どころかすべてのことがどうでもよくなり、茫然自失となる他ありませんでした。

母の死因は、耳下腺がん。年間で約10万人に1人が診断されるものだそうです。

亡くなるそのときまで知らされることはありませんでした。

母も家族も、僕に心配をかけないようにと、受験勉強に集中できるようにと最期まで黙っていたのです。

僕自身うすうす感付いてはいましたが、その事実を受け入れたくない気持ちがあったのも確かです。

この病気は唾液が出なくなる症状もあり、飲食店で働くことにしたのも、いつでも気軽に水が飲める職場だったからでした。

そこまでして働いてくれていた母には、ほんとに頭が上がりません。

唯一の心の救いは、亡くなる直前の自宅療養時に、感謝の言葉を伝えられたことです。

ろくに親孝行もしてこず、ここまで大きく育ててくれたことに「ごめんなさい」と「ありがとう」と「これからちゃんとやる」ことを伝えました。

母が亡くなってからしばらくは、ただただ時だけが流れていきます。

大学受験は諦めてしまっては母に申し訳ないと、とりあえずで受けました。

家族、友人、周りの人がなんとか僕を支えてくれたお陰で、この辛い時期を乗り越えられたと思います。

この喪失体験をして、僕の中で人生の価値観が大きく変わりました。

何もなくても、生きてるだけで十分恵まれていると思える人生。生きてさえいればどうにでもできる。

その後、どんな壁にぶつかったときでもあのとき以上の思いはしない、あれ以上しんどくはないから余裕だと、なんでも楽観主義(楽天主義?)になったと思います。

周りからは飄々としていると言われることも多いです。

それから自分では積極思考にもなり、責任感も強くなったと思います。

2010年(19歳)真面目なキャンパスライフを送る

母からもらった力もあり、某国立大学教育学部に現役で合格しました。

小学生の頃からずっと、担任の先生には恵まれ、良くしてもらっていた経験がありました。

今思えば家庭の事情もあったりしたからかなと、よく気にかけてくれていたことに感謝しています。

そんな先生たちへの憧れと、知っている大人が教員しかいなかったこともあり、教職を目指すことになります。

家庭の経済状況にもより、学費は4年間全額免除でした。

成績も伴っていないといけなかったりで授業をサボることもほとんどなく?わりと真面目な大学生活を送ります。

そんな背景もあったりで、大学ではあまり心を開ける友人を作ることは出来ませんでした。

気心の知れた、地元の友人とばかり遊ぶことが多かったです。

ちなみにアルバイトは、パチンコ屋の店員を2年間、塾講師を2年間、単発でテストのモニターとか警備のイベントスタッフとかを経験しました。

アルバイトをして稼いだお金に関しては、これまでの人生の反動?なのかバイクを買ったり旅行に行ったり、趣味に娯楽にと好きに使ってしまっていました。

それはそれで楽しかったですが、今思えば留学とかいろいろ経験しておけばよかったなと思います。(あるあるですね。)

2014年(23歳)がむしゃらに働いた若手教員時代

教員採用試験に一発で合格し、ずっと憧れだった教員になりました。

がむしゃらに働いていた若手時代、生徒のためにと毎晩遅くまで授業準備のため残ります。

休日も返上して部活動や平日にやりきれなかった仕事のために出勤する日々。(90日連続出勤とか。)

忙しくも、当時はそれが楽しくて仕方ありませんでした。

プライベートでは学生時代に続き浪費が多く、好きなことをやる独身貴族生活。

ロードバイクを買って、車を買って、ゴルフへ行って、焼肉食べて。。

(ちなみに初任給はちゃんと祖父にOMRONのフットマッサージャーを買いました。)

金融リテラシーゼロだったこの頃の僕は、お金を貯める力も、増やす力も、守る力も、使う力もありません。

無駄にいくつもの民間の保険に契約するなどもしてしまっていました。笑

2016年(25歳)株式投資に興味を持つ

ある日、同僚からマクドナルドのセットメニューの”タダ券”を大量にもらいました。

またある日には、その同僚からプロ野球観戦に誘われ、仕事終わりに”タダ”で東京ドームや神宮球場まで試合を観に行きました。

羨ましくなったので話を聞くと、その”タダ券”は親御さんがやっている株式投資の株主優待だというのです。

へぇー!”カブヌシユウタイ”ってすげぇ!最高じゃん!←

それから全く知らずにきた投資について興味を持ち、もちろんはじめは株主優待目当てで株式投資を始めます。

初めて買った株はイオンとオリックスでした。しばらくしてからライオン、味の素、全国保証あたりを買ったと思います。

よく使うスーパーの優待カード、カタログギフト、日用品や食品の自社製品、クオカードその他、あらゆる優待が届くたびに喜んでいました。

ちょうどその頃、趣味で夢中になっていたマラソンではサブスリーを達成します。

100kmのウルトラマラソンも完走しました。

走るだけじゃ物足りなくなり、より過酷なトライアスロンにものめり込みます。

気が付けば佐渡国際トライアスロンのロングタイプ(236km)まで完走していました。

マラソン経験ゼロからウルトラマラソンと佐渡国際トライアスロンを完走するまでの話
「今年こそはサブスリーを達成したい!」「走るだけじゃ物足りない!トライアスロンて面白そう!」「100キロ走ったって言えたらマウントとれそうだな」(←相手が困るだけw)学生時代は持久走が嫌いでマラソンなんて走るもんかと思っていた僕が社会人になり、いつしかこんな感情を抱くようになっていました。

相変わらずの浪費癖はこの頃、これらのレース代やトライアスロン関連用品、それからこそこそとハマり始めたキャンプ用品集めに向いている始末。

(未だにほぼ実家の庭でしか使えてないけど。。笑)

2019年(28歳)親からの贈り物を受け取る

実家に帰省した際に祖父から「必要になったら使え」と通帳などを渡されました。

中身は、亡くなった家族が僕の名義で積んでくれていた定期預金と保険証券。

相続の受け取り分も含め、10年の時が経ち、満期を迎えたとのことでした。

このときからお金に対する意識が大きく変わり、無駄遣いをしないようになりました。

2020年(29歳)コロナ禍で転職決意、そして結婚

この年、僕の人生が大きく変わることになります。まずはコロナ禍のステイホーム。

職場は一斉休校となりこの先どうなるかが不透明な中、おうち時間が急増します。

そこで普段は振り返ることもしなかった、本当に大切なこと、自分の求める生きがいとは何か、これからの生き方、働き方、資産運用について考えることになります。

これまでは仕事の帰りの時間も休日も、何も気にせず好きなだけ仕事して、趣味にも没頭して。

自分で言うのもあれですが、苦労してきた過去を考える隙を与えないために無理やり時間を埋めていたような気もしました。

もちろん教職にはやりがいを感じていましたし、やりたいことをやってお金までもらえるなんて、こんな仕事他にないぞ!とも感じていました。

「教員たるもの~」とはよく聞きますが、まさに生徒のことを第一に考え、生活指導に学習指導、部活動指導その他と、一日の大半を学校に身を置いて頑張っていたつもりです。

しかし結婚をして憧れていた自分の家庭をもった将来をイメージしたときに、家族との時間を犠牲にしてまで働ける自信はありませんでした。

家庭との両立をうまくやっている人もいるのでしょうが、家族とのゆとりある時間を確保するためには、どうしても勤務時間外に発生する多くの『生徒のための○○指導(準備)』を削るしかありません。

そのような働き方を続けていくのは、自分にとって教職を全うする、生徒のために働くという部分が欠けてしまうのであまり気持ちの良いものではなさそうでした。

ふと周りを見渡すと、出世して高給取りになっている人、起業して自分のスキルで食べている人、移住してリモートでの仕事をしている人、結婚して家族とばかり過ごしている人など、いろんな生き方働き方をしている人がいました。

そこと比べるわけではないですが、この当たり前のように働いて過ごしてきた日々を初めて疑うことになりました。

いろいろと振り返る中で、「勉強したくても小さい弟の面倒を見なければならない」「塾に通いたくてもお金がないからアルバイトをしなければならない」などといった、家庭や経済的な事情で学習を諦めてしまう子が多くいることが心に引っ掛かっていました。

また、「子どもたちと向き合う以外の業務が多すぎる」「子どもたちの情報共有の場が少ない」などといった教育者側の悩みも数多く感じてきました。

そんな教育の経済格差や地域格差をなくすこと、教育者を支えることの重要性について考えていく中で『EdTech』という新しい領域への興味が増していき、魅力を感じていきました。

ここで改めて自分の人生の中で優先度が高いこと、大切にしたいことを考えてみました。

・家族との時間を大切にしたい

・世のため人のためになることをしたい

・子育ては田舎でしたい

・自分自身も成長し続けたい

それから今の働き方や教職について改善したいこと、少しネガティブですが悶々としていることも考えました。

・複雑化、深刻化、増加する仕事量により、生徒と十分に向き合えないことがある

・生徒の実態とは合っていない、正しいとは思えない教育策を取り入れることがある

・部活動、講習会、説明会その他、休日の勤務ありきで成り立っている。またそれをするのが善と評価されるような風潮がまだある

・あらゆることに保守的で(当たり前かもですが)何をするにも責任の所在が必要

・(職場によると思いますが)やらない理由、できない理由探しばかりである

・イキイキして見える、憧れるベテランが少なくて将来があまり明るくない

他にもいろいろとこれまでの経験や今後の方向性、上記の気持ちなども踏まえた結果、教育には携わりながらも家族とのゆとりある時間を確保するために「働き方を変える」という決断に至りました。

ちょうどこのコロナ禍でいろんな良い影響と刺激を受けたのが『中田敦彦のYouTube大学』でした。

とくにお金に関して、自分がどれだけ無知だったか、恥ずかしくなるほどでした。

親が遺してくれたお金に感謝しつつ、上手に活用していかなくてはと考えます。

そして資産の一部で個人向け国債と米国株ETFを買い、(このときは)一般NISA枠で銀行の窓口で勧められた商品を買(ってしま)うことになります。

『両学長 リベラルアーツ大学』こちらのYouTubeチャンネルからも、超有料級な情報をたくさん学ばせてもらいました。

生涯本業一本という考えでなくてもよいと気付かせてくれたのも、この両学長です。

今後の生き方、働き方、資産運用についての方針は間違いなくここから吸収したことが土台にあります。

この年、プライベートではめでたく結婚することができました。

近所の公園が特別なデートスポットに変わります。笑

それと同時に、自分の家族を大切にして、将来的には場所にも時間にもとらわれずお金にも困らない自由な生活を送ることを決意します。 

2023年(32歳)退職、そして開業へ

先にも少し述べましたが、ITやテクノロジーの発展は教育はもちろん既存のビジネスの効率化や最適化を可能にし、これからの生活を間違いなくより豊かなものに変えてくれます。

現在はそちらの角度から活躍できるような働き方の実現を目指し、また「お金、時間、健康、心、仕事、人間関係のバランス」を大切にするために、一つずつ頑張っているところです。

『為せば成る、為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。』

江戸時代中期の大名「上杉鷹山」の一首、僕の好きな言葉です。

記事前半でも述べた通り、こちらのブログでは僕が学習したことや行動して成果が出たことなどを発信していきます。

もしすでに実践中の方、経験されている方がおりましたらアドバイスをいただけたら大変嬉しいです!

これから学習を始めようとしている方、何かに挑戦しようとしている方はぜひ僕と一緒に頑張っていきましょう!

何かご質問等ありましたらお問い合わせフォーム、またはツイッター(@suuuzy_tutor)より気軽にご連絡ください。

さて、とてつもなく長いプロフィールになってしまい、誠に恐縮です。

最後までお付き合いいただき、本当に感謝いたします。ありがとうございました!

このSUUUZY BLOGが少しでもあなたを救い、人生の一助となれば幸いです。

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